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執筆者の写真小林大賀 Taiga Kobayashi

祭太郎さんインタビュー(前編)

更新日:2023年9月27日

アートのセラピー的側面の研究のために行ったアーティストへのインタビューシリーズ。 ※この活動はHAUS(Hokkaido Artists Union Studies)サバイバルアワードの支援を受けて行われました。 祭:祭太郎  小:小林大賀  羊:羊屋白玉

午前3時植物の踊り

サイズ:720×540mm 素材:木パネル、アクリル絵具 制作年:2022年

精神疾患の話


祭)気質的に作家はそういう似たところを持っていると思う。症状として捉えるか、認識しているかの問題は横に置いといて、ひとくくりには出来ないけど、ものづくりって、時に人には理解できない事に執着して、一心不乱に最後まで作り上げてしまう。普通、なかなか出来る事ではないですよね。

でも作家の間ではそれが普通だと思っている人が多いと思う。作るとか、悩むとか。いつも頭の中がいっぱい。一切そういう事に縁がない人からすると、なんで、そんなことをするのか?って思われても仕方がないと思う。僕が作家に出会うまでは同じように思っていたから。



二足のわらじについて


祭)僕は作家活動をしながら東洋医学、鍼灸の技術を学び、治療の仕事を始めるようになって15年くらいです。患者さんにはいろいろなタイプの人がいて、お医者さんに診てもらったけど、どこにも異常はない。だけど、患者さんは身体に異常を感じる。そういう方は少なくないです。お医者さんが考える症状に当てはまらない患者さんを治療を通じて、回復していく様子を見た時、それは、ものづくりに関わるプロセスそのものだと感じました。

僕がHP上でアートと鍼灸を分けていないのは、そういう思いが強いからです。治療する時も受身パフォーマンスに似てるっていうか、そんなに変わらないっていうか、行ったり来たり往来できるようなものなんですよ。

それまで自分は20才の時から受身パフォーマンスを通じて、他者と間接的に関わってたつもりですけど、もっと直接的に関わっていきたいという思いが強くなってきたんですね。

20代の時、僕が一番伝えたかった「痛み」について、他者に直接伝わるのか?という問いから、実験的な意味も込めて受け身パフォーマンスを始めました。続けていくうちに、この方法では伝わらないと思うようになりました。別な表現方法を考えていくうちに、伝えたい事よりも、日常生活を支える基盤を持てない自分の不安がまさり、表現活動を続けていくためにどうすればいいのか考えてしまいました。

普通にアルバイトをしながら生活をしてきましたが、仕事中は自分の悩みを解決することに時間を割けるわけないですよね(笑)そして何が一番苦手だったかっていうと、組織にいる人たちが普段の自分と違う人格で振る舞う。そして、自分も同じような振舞いが苦手なんだなと気がついて、、、だったら、やりたい環境を一から作ろうって、30歳くらいのときに決心がついたんです。他者と直接関わり、技術や表現活動を生かせるんじゃないかと直感したのが鍼灸師でした。そこから15年くらい超細々とだけど続けてこられたっていうところですね。



表現について


祭)小さい頃から絵を描くことが好きでしたが、運動の方が好きだったので、高校まで野球をやっていました。その影響で体育会系にある抑圧的なノリが刷り込まれていました。それが卒業後、デザイン学校に入学し、現代アートを学ぶ人たちに出会うと、周りの人たちと感性が全然違うので、そのギャップに驚いてしまったんです。オドオドしてましたけど、刺激的で面白かったですね。

友達と会話の中で知らない話題がずっと続いていても、わからないなりに話を聞いて、後追いで映画や音楽を知りました。

とにかく知らない、わからない事だらけでしたが興味だけは人一倍あったと思います。それはあらゆる方面に影響があって、例えば、僕の読書法もそうで、読んでいる本の中でわからない言葉や意味があっても一旦止まらずそのまま突き進んで、いつか、わかる時が来るっていう感じで、何年か経ってその本を読んだらするする読めている瞬間があるじゃないですか?わからなかった事がいつの間にか自分にも理解ができている!そんな訪れるような感覚が好きでして、、、だから僕の生き方はその繰り返しのようです。例えばトライ&エラーってありますけど、トライよりもっと些細なものから始まっているから、いつの間にか、始まっていてエラーが起きているんです。そして、気がついたらトライせざるを得なくなるとう(笑)

トライ&エラー・エラー&トライの過程って、普通、あまり人に見せるものでないし、ほとんど話すこともないと思っていました。完成品をポンと差し出して、それを見た人たちに「良いね、悪いね」とか「好きだね」と評価をもらって、作り手から離れた完成品は、思い出と共に消え去るというのが普通だとすると、自分が考えるアートはその普通とはならないんだなぁと思っています。エラーも含めたものを完成品として差し出すのですからね。自分の体に起きてる状態や感覚をあらゆる手段を使って外に表してみる事。完成度の高さ低さは度外視して思い通りに出来なくても表してみる事。とは思いつつ、いつも頭の中の他人が僕に自己満足だろ?と語りかけてきたり、制作渦中は余計に切羽詰まってしまいますが、しかし、表現する前の自分自身とその後の自分自身は全然違う感覚があることに気がつきました。時間がかかりますが僕はそこに注目していました。

現在ですと、それがアートや鍼灸治療だったりするわけです。注目するところは無意識な領域が多いので、すぐに理解する事は難しいんですけど、作品や人の全体生にあるほんのひとかけらが見えた時の時間て、何かに対して自分自身が回復しているなと感じるし、繋がっているよなって思っています。


小)5,6年前に初めて祭さんの治療を受けに来た時も、鍼灸はとてもアート的なところがあって、と話されていたのが印象に残っていました。


祭)治療中、身体に直接に変化を感じる事があります。例えば、胃腸のツボを治療中、患者さんのお腹がよく鳴るのことがあるのですが、私のお腹も同じタイミングで鳴ることがよくあります。また、患者さんの緊張しやすいポイントや疲れやすいポイントをイメージしながら治療するのですが、皆さんが持っているツボのポイントやイメージは同じようでいて、微妙に違います。そこに焦点を当てています。その視点に立つと、

小林さんの(体の)情報っていうのは、筋肉や骨格を何種類かに分けてみて、それぞれの特徴や性格などに分類します。そして大まかな小林さん像をイメージします。そして、小林さんの普段の生活、気にしていることを質問してみて分類した特徴や性格の整合性が上がると、より細かな小林さん像のイメージができます。会話や触診を繰り返すと、音楽のセッションをしているような盛り上りを感じることがありますね。全部はあてはまらないけど、小林さんとのやりとりで感じた情報は断片的に誰かの役に経つんですよ。皆さんが持っているツボやイメージは同じ部分と違う部分があり、それを意識しながら治療しています。



小)暗黙知として溜まっていくんですね。



祭)そうそう、だから、絵を描いている時も同じような感覚です。私は下絵を描かないことが多いので、イメージする線や面を重ねたり、何かと何かの情報を繋げているんです。新鮮な情報は他者からすると矛盾だらけで意味不明なものが多いと思うし、組織に所属すると、大体説明責任や雑務が必ず前にあるから進むのが遅くなる。なんて言っていいのか、形になる前のある感覚の状態を忘れたくないというか、、、手順はまっすぐそのまま進みたいというか、、、適切な言葉がないかな。


小)前回の治療の時も、「小林さんも経済的な安定のために組織に属すことがあるだろうけど、難しいところですね」と言われましたね。


羊)繋がってますね。


祭)どう一人であがいても何かしらの組織からは逃れられないですけど。無意識に頑張りすぎると精神的に疲れて病むところまで来ちゃうんだと思います。



シャケはかみさま 

サイズ:400×325mm 素材:木パネル、アクリル絵具 制作年:2019年


統合を志向すること


小)お話いただいたことの中にも聞きたいと思っていたツボがいくつかありました。作品というのは不特定多数に対して向けられるけど、個に対して、という。このインタビュー企画を始めるきっかけとして、この十数年来アートと癒しというものの関係がずっと気になっていて。アートとして不特定多数に向けられるもののフォーマットとしての限界というか、社会的な限界があって。お釈迦様の対機説法じゃないけど、対機説法アート、個人の困難や課題に対して、何かアクションするということがありえるのかな、と漠然とした問いもありました。祭さんはアートという方でも治療という方でも仕事されていて、ちょっと憧れる存在というか。まさにそういうことを統合しようとしているのかなと。


羊)モヤモヤからの脱出


祭)統合しようとする試みがあるとすれば、きっかけは幼少の頃からさかのぼると思います。10代のころを振り返ると、分裂気味な幼少期だったんですよ、身体も健康だし、家族や生活もそれなりに安定していたと思うけど、微妙な引っ掛かりや不安じゃないけど「なんだこのつまらなさ」みたいなモヤモヤを常に抱えていて。家族や周りの友達に相談するまでもないし。将来の夢や、この先何かしたいこともあまりないという、受け身の状態でした。かと言って死んでしまいたいというところまで悩んでいないし、それなりに元気だし、野球やったり、友達と遊んだり楽しいし、おおらかな環境だったから、余計にモヤモヤがなんなのかわからなかったですね。

それから環境が変わり一人暮らしを始めてからの20代は、モヤモヤがさらに大きくなって自分探しみたいな状態になりましたね。アートに出会い、安易に派手なことやればうけるかなくらいで始めたけど、それでは全然ダメで、仕方がないから一番苦手な自分を掘り出す作業を初めて、言葉にならないようなものを無理やり言葉にして、ようやくひっぱり出してきた感が強い受け身パフォーマンスをはじめました。やってみたいけど、やらなくてもいいことを実現するって、勇気がいりました。例えば、全裸の中、鏡の前で変顔やポーズとったりするじゃないですか、鏡が人に変わったら、恥ずかしくなって普通しないですよね。当時の自分は、表現ってそんなものだったんです。で、ある程度満足したら別の道があるのかなと思ったけど、土壺にハマったというか、そこから抜け出せない感じで、20代が過ぎていきましたね。若さ故の高揚状態の時って無意識的な部分が(自分の)そこらじゅうから発されていて、恥ずかしい。いまだにパフォーマンスをしますが、その時のことがフラッシュバックするからなかなかしんどい作業なんですね。良いのか悪いのか、やってるときは自信持ってやっているけど。作品を作ってから何年かしないと、自分の作品見ても何も言えないですね。


羊)出来てすぐは映像も見たくない。


祭)そう、映像も見たくない。恥ずかしいでしょだって。

何人か俯瞰で見てますよね。やっているときは普段と全く違う自分だったりするので。その、俯瞰しながら見すぎても面白くなかったりとかね。その、ある意味装置があるからできるけど、けっこう危険なことかもしれないですね。

いや、けっこう危険だと思いますよ僕は。


小)ポロックが自分の制作過程をビデオに撮ったりしたあとに死んじゃったって、聞いたことが。


羊)ええー


祭)その話と繋がりあるかわからないですけど。

たぶん心にある何かを自分でリミットかけていると思うんですよ、僕も一時、破滅的に表現してやろうとしていたから、その感覚はよくわかるんですよ。でも身体は意識する事より自律的な働きのほうが多いから、抗うことができないんだけど。その時々に思うことは、身体の調子をできれば整えていたほうがいいのかなと思います。その時自分が大事にしてるものに集中すれば良いと思うし。それが制作なのか仕事なのか対人なのか、わからないですけどね。結局は全部自分の作品に反映すると思うので。他者にこういう話すると、話していて自分を慰めている感じがしますよね。普段はこういうのって他者に話さない限り、これは自分のモヤモヤしている状態の時に考えそうなことでしょう。だから、話を聞いてもらうっていうのは、言霊じゃないけど自分に返ってくる気がする。

例えば、北海道の浦河町にある統合失調症の施設のベてるの家の「妄想大会」を本を読んで知ったのですが、統合失調症の方の多くはAをAと認識しないから。AをBという妄想が目の前に現れて周りの人は混乱する。そうなるとまわりが混乱を囲み込むしか解決方法がなかったらしいけど、そうじゃないアプローチ、相手の懐に入るというか、同じノリになってみたり。すると今度は相手が冷めたりとか、、、身体的に境界線を跨いだり、突然、突き放したりっていう行為は一般の人には苦痛でしかないと思うんだけど、でも本を読むと、当事者もそれは苦痛なんだと。

その苦痛でしかない妄想を大会として開くことが面白いアイデアだなぁと思いました。当事者や関係者はそれはそれは真剣だと思いますが、そこがイベント場に変化すると、演者と観客の間に自然と自由な空気が生まれる。観客は一歩下がって俯瞰した気持ちでいられるから、演者の声や動作、語り口から面白さに注目できる。みんなでその場の空気を作り上げて支離滅裂な話を聞き、笑いに転化することは一種の祭りだと思うし、なんていうのかな、その人から発する言霊を全員でお祝いするような場の空間というか、、、、


小)当事者研究。


祭)僕も祭太郎をやりながらちょっと似通っているというか。


小)深澤孝史さんとそういう話をすることがあるんです。深澤さんはそういう施設で企画をしたりとかしていて、僕も精神病もっている家族や友人がいたので。

外に妄想を出しちゃって、それが笑いのネタになるってことがわかると、すごくいいんだ、みたいなこと言っていました。考えられる限りの救いじゃないけど、ポジティヴなものだと考えられる、みたいなことを言っていました。


祭)僕の受け身パフォーマンスも、全く同じようなネガからポジに変わる過程を経験しました。観客の反応の1つに笑われたことが、ちょっと安心したというか。わけがわからない事でも、ちゃんと認識してくれたと。

家族のことだから言いにくいですが、親との間に全然言葉が理解しあっていない感じが小さい頃からあって。それって意識に上らないんだけど、いつもイライラしていたんです。だから、そういう小さなモヤモヤとかイライラが身体に隠れていたかもしれないですね。表現をして人に認識してもらって自分のインナーチャイルドが安心したというか、、、

それって大事ですよね。アトピーやアレルギーの原因がちょっとわかっただけで、身体は安心しますよね。

SNS見てて思うのが、読んでいる文章の多くが直接的に脳内に入ってくるから、自然に分裂症気味になりますよね。自分が思ってもいない言葉が頭に流され、その言葉の多くはある種のレトリックを使うから例えばA=Aの事を、AをBにしたり、AとBをつなげたり。一見「そうだよね」って思っても、よくよく考えたら違うってことが多すぎて。そのおかげで「物事ってなかなかみんな統合するのが難しい」って思う(笑)僕の理屈も破綻している事が多いし(笑)。まあ、それでも生きているわけだから、、、

ただ身体の事に直接関わる仕事をしている以上、生きる知恵に関してはA=Aとして認識しながら知恵を増やしていきたいですね。そして何かの作品に反映ができたらいいなぁって思います。日常生活あってのものだからと今は考えられるようになりました。僕の場合、一般的に年収これだけあってとか、これだけお金があって幸せになれるっていう事ではないので、そこが難しいというか。自分なりにサバイバルはしてきたつもりです。


小)サバイバル。この一年くらい、自分の過去の作品を今の視点で眺めた時に、あれはあの時の危機を乗り越えるために、やらなければならなかったんだな、と思うことが2,3あり。それで、例えば父親が死んでいく時に、ああいう演劇を作ったんだな、とか。その時は切迫感でやっていたから分からなかったですけど。それは自分が自分に対してやったことで。それを鍼灸じゃないですけど、他者に応用することができるのか、というまた漠然としたものがあり。そういう例っていうのはほとんどないけど、ありえるとしたらどういうことがあるか模索したくてこういうインタビューをしています。


祭さんは鍼灸、身体の治療家としての部分があり、密接で切っても切れないというお話をされましたけど、逆に、こういうパートはやっぱりアートでなければ、とかそういう部分もありますか?痛みの表現とか。


祭)そうですねえ。。。どう言ったら良いか。何かを深く掘り下げる為にはアートは必要だと思うんですよね。ただ自分は深く掘り下げる事で救われたいという気持ちはあまりないんですよね。僕が考えるアートは身体や精神のすぐそばにあるもので、自分の小さな欲望を見つけて吐き出し最後まで完結させるための練習というか、そこのところは圧倒的な深みを感じてみたい。いろんな分野のアーティストの作品や言葉を聞いて対自して、感動や共感はもちろんですが違和感や不快感を自分の中から発見して新たな創作の芽を見つけたいと思っています。いつも僕は何か考え事があって。だから人の言葉を欲しがったり。常に人の声を聴いたりとか、本を読んだりとか。20代まではそういう欲求はなかったんですけどね。自分の中の引き出し、経験をとにかく出したいっていうのがあったので。出させてくれみたいな感じ。魂の叫びみたいな、、、


よくよくいろんな事を見てみると、表現の世界ってもっと深いと思うようになってきたんですね。表現って自己肯定するためだけにやってる訳じゃなくて、何か直感的に大事なものを表しているんではないかと。それは身体と精神は社会環境と繋がってること、そして、目の前で起きている事に反応し表現することで、僕たちに生きていることを示してくれているんだと思います。自分自身でいられるって今の社会では簡単な事ではないなといつも思います。


治療の話に戻ると、人って僕も含めて無意識的なものに気づいていないからこそ、他者からみて面白いって感じるわけだし、そこを「うっひっひ」と共感しながら治療するのは、実は楽しかったりするんです。生きていることを示してくれるから。


小)前回の治療の時に「アーティストは体歪んでいる人が多い」って。


祭)正直、歪んでない人はいないですが、特にアーティストは歪んでいる人が多いかかもしれないですね。


小)それは単純にあれなんですかね、苦労してるから歪んでるんですかね。


祭)なんていうか、精神が身体にちゃんと反映されてるっていうか。

たくさんものを作れる人っていうのは、作品の完成をより鮮明にイメージできるから、そこまで到達するまで、最後までやり抜く能力は人一倍あると思いますね。内に抱えている動機も強いので、その思いを身体全体で背負っているんですよね。いろいろな視点で考えながら変化していく作業は特に労力がいると思うんです。常に考えてないと浮かんで来ないし。そして作品を完成をさせる為には様々な条件や環境、社会状況などの問題がクリアされて初めて作品が完成するので、それに対する圧力が身体にかかればかかるほど自然に緊張感が強くなります。だからちゃんと休めてない人が多いと思います。だからこそ、自分は身体的なアプローチで、一瞬でも良いから体を解放してあげたいって気持ちが強くなりますね。


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